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2011.06.12

マイ・フェア・レディ(1964年)

Strawberrytarte04
今年は東日本の苺が本当に不憫だった。

 苺の季節も終わってしまいましたね。今年は東日本の苺が本当に不憫で不憫でたまりませんでした。栃木や福島産の立派な苺が二百円で売られ、それでも店頭にいっぱい余っている様子は一生忘れないでおこうと思います。野菜も然りです。もはや、野菜が美味しい夏が近付いてきたせいで価格が下がっているのか、別の理由で投売り状態になっているのかわからなくなってます。この苺タルトは、東日本大震災前、福島産の苺が店頭に並び始めた頃に、パイ皮とカスタードクリームを作って仕上げました。さて苺タルトが出てくる映画というと、ジョージ・キューカー監督『マイ・フェア・レディ』しか思い出せませんでした。今度、クリント・イーストウッドがジョージ・キューカーの『スタア誕生』をリメイクするみたいですね。エスター役はビヨンセだとか。楽しみです。



 『マイ・フェア・レディ』を初めて見たのは、どこかの映画館のリバイバル上映だったように記憶しています。誰もが見ている定番映画ですが、私にとっては長年、ラストシーンがよくわからない映画の一本にカウントされていました。「僕の上履きはどこだ?」という最後のセリフでなんでイライザが優しく微笑んでハッピーエンドになるのか、まったく理解できなかったのです。実際は、ヒギンズ教授を演じるレックス・ハリスンは目を完全に隠すように帽子を目深に被り、椅子の上で寝た振りをして、「Where the devil are my slippers?」と言います。「the devil」っていうのは特に意味があるわけでなく、疑問詞を強めるために使う古い言い方なのだそうです。ヒギンズ教授はやたらと「the devil」という言葉を使います。その口癖を何度も聞いているうちに、「the devil」とはアメリカ映画における「fuck」みたいなノリの言葉? と感じたりしましたが本当のところはどうなのでしょうか。


 


 コヴェント・ガーデンの花売り娘だったイライザ(オードリー・ヘプバーン)はヒギンズ教授によって言葉遣いや立ち居振る舞いを教育され、上流階級の人間の振りをしてまんまと社交界デビューを果たします。その夜、イライザの成功が自分だけの手柄であるかのようにはしゃぐヒギンズ教授を見て、イライザは自分の努力を虚しく感じますが、ヒギンズはまったく気付きません。祝賀会も解散となり、ひとり応接間に取り残されたイライザが哀しみにくれていると、ヒギンズが上履きを探して階下へ降りてきます。優しい言葉のひとつもかけないヒギンズにとうとう感情を爆発させたイライザは彼に上履きを投げ付け、ありったけの言葉で罵倒します。

You wouldn't care if I was dead.
I'm nothing to you.
Not as much as them slippers.

私が死んでもあなたにとっては
上履きと同じくらいどうでもいいことなのよ!

 ヒギンズにとってはどうでもいい物、とイライザが決め付けた上履きのことをエンディングで探し求める発言をするということは、「上履きも君のこともどうでもいいわけではないんだよ」っていう意思表示? とも考えたのですが、いや、上履きと一緒にされたんじゃ全然納得できません。
 では、ラストシーンで「Where the devil are my slippers?」とヒギンズが言う前に、イライザがなんと言っているかと言うと、わざと元の訛りのまま以下のように言います。

I washed my face and 'ands
before I come, I did.

顔も手も洗ってきたよ

 ここでヒギンズは映画の中で初めてイライザの言葉遣いを正さず、「Where the devil are my slippers?」と返します。ということは単なる賭けや研究の道具ではなく、「コヴェント・ガーデン育ちの花売り娘だったイライザそのものを受け入れるよ」っていう意思表示ということでしょうか? 先述した「上履きも君も必要だよ」案よりは受け入れやすい気もしますが、何故そこでヒギンズが寝た振りをするのかが私には説明できません。それに直前の言い争いでイライザがヒギンズに投げ付けた言葉「あなたの上履きを拾うために戻ってほしいんでしょ?」に込められた怒りはどこへ行ってしまったのでしょうか。


 


 納得できないまま同じ原作を一九三八年に映画化した『ピグマリオン』(アンソニー・アスクィスとレスリー・ハワードが監督)を見てみたら、ラストシーンのセリフが一九六四年版とまったく一緒でありながら演出が微妙に違っていて、シナリオに込められた本来のニュアンスを即座に理解できました。一九六四年版の結末のわかりにくさは、「Where the devil are my slippers?」のセリフの後に、オードリー・ヘプバーンのウルウルした顔を映したことによって生じていることがよくわかります。人気のヒロインの愛に輝く美しい顔をクライマックスに入れておきたいという狙いだったのでしょうが、そのせいで私にはこの結末の意味がずーっとわかりませんでした。なんてことでしょうか! 気の強い女とヘソ曲がりな男が惹かれ合っているのに最後まで意地を張ったまま、という演出でないと、このエンディングはチンプンカンプンなはずです。


 


 苺タルトは一九六四年版のヒギンズとイライザの発音のレッスンシーンに出てきます。ヒギンズの家に溢れている菓子につられてレッスンに打ち込むイライザは、苺タルトにも物欲しそうな視線を送ります。しかしここでもヒギンズはイライザの視線にまったく気付かず、籠の中の小鳥にその苺タルトをやってしまいます。映画の中にそのように登場する苺タルトは面白くて美味しそうなのですが、実は、ジョージ・キューカー作品を特徴づける菓子は、苺タルトとはまた別に存在するのです。長くなってしまったので、それはまた別の機会に紹介します。ちなみにもうひとつ、エンディングの意味がよくわからない映画として私の記憶の中にカウントされているのは、ノーラ・エフロン監督『ユー・ガット・メール』です。



 


 

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コメント

突然すいません。
私には1964年版で十分分かりました。
イライザが出て行ってしまって、ヒギンズ先生は何か寂しさを感じて、彼女の昔の、悪い発音の録音を聞いて懐かしく感じていたのです。そこにイライザが帰ってきて、そのシーンを見たので、自分のことを想ってくれている。追い出して後悔していることを確信し、機械を止めて、I washed my face and 'ands before I come, I did.とこの次の自分の過去の台詞を生で言うわけです。機械の声を聞かなくても自分はここにいるということを示しているわけです。彼女を恋しく想っていることに気づかれたヒギンズ先生は、それでもまだ素直に「帰ってきてくれてうれしい」とは言わず、それよりスリッパは?という意味で「Where the devil are my slippers?」と言いながら、表情を見られないように帽子を下げて、興味がないように寝たふりをして照れ隠しをしているわけです。イライザは、相変わらず子供っぽくて素直になれないヒギンズ先生のかわいい面も含めてほほえましく思い、あの表情で終わったということですね。

投稿: | 2014.02.14 09:48

なるほど!そう説明していただくとすごくよくわかります。

そうやって見ると1938年版よりもしゃれてて洗練されてますね。私がまだまだ子供でしたcoldsweats01 

ジョージ・キューカーは大好きな監督で「マイフェアレディ」も好きな映画なのに終わり方だけがよくわからなくて長年ひっかかってました。

ガチガチに凝り固まった見方がふっとほぐれた気がします。もともと映画を見た後に感想を喋りあう友人がいなくて始めたblogだったのですが、他の人の感想を聞くのってやっぱり楽しいですね。ありがとうございました。

投稿: OLマリコ | 2014.04.06 11:21

コメント読んでいただいて、光栄です。

投稿: | 2014.06.09 08:57

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